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ブンナよ、木からおりてこい 水上勉 (新潮文庫)

例外的なことかもしれないので具体的な名前を出すことは控えるが、一年くらい前に家族で鎌倉のある寺へ行った時のことである。由比ガ浜を見下ろす境内からの眺めは素晴らしく、子供たちは代わる代わるに望遠鏡で遠く葉山の光景まで楽しんでいたが、次に池へと場所を移して泳ぐ鯉や生き物を見ていると寺の人が「おたまじゃくしはいるか」と聞いてきた。子供たちは突然の話に少し驚き、戸惑っていたが、「欲しい」とはっきりと意思表示をしたので、ご好意に甘えて池に泳ぐおたまじゃくしをインスタントコーヒーの瓶に入れてもらって家まで持ち帰り、小さな水槽で育てることになった。

高い椎の木に登ったとのさまガエルのブンナが出会った一連の出来事。そこでブンナが見たこと、聞いたこと、感じたこと、そして考えたことは、この世界に生きるとはどういうことであるかという根源的な問題を私たちに問うている。生きていくためには時として利己的で排他的な行動を取らざるを得ない存在である私たちは、自分たちが悲しい存在であることを知った時に生きていることの意味と喜びを感じることが出来るのである。

おたまじゃくしたちは水槽の中で元気に育ち、やがて足が出て手が出て立派な雨蛙となった。昼間は家に誰もいなくなるため、担任の先生の許可を得て学校の教室で面倒をみることになったが、中には蛙が苦手な生徒もいる。結局は教室ではなく校庭の隅にある広場に水槽を移して、私の子供たちを含む有志で交代しながら世話をすることになったが、環境が合わなかったのか、ほどなく蛙は全て死んでしまった。子供たちは生き物の死というものに接して悲しみ、そして泣いた。

鎌倉の寺から家へと来たおたまじゃくしたちは、仏様のお使いではなかったかと、私は本気で思っている。子供たちに対していまこの時点で、生きることはどういうことか、死ぬとはどういうことか、命とはどういうことか考えてみろと言うつもりはない。自分自身で覚悟も答えもないものを聞くことはできない。子供たちにとっていつか自分がこの世界からいなくなるということは想像もできないだろうし、今、知る必要もない。ただ蛙の死に際して感じたその気持ちは、これからも何かの時でいいので思い出して欲しいと思う。私は来月の半ば過ぎに、用事で家族とは別にその寺へと行く予定がある。一人でおたまじゃくしを貰ったあの池の周りに立って経緯を仏様に報告をしながら、私自身が木からおりてきたブンナになることが出来るのか、静かに考えてみようと思う。
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魔笛

Author:魔笛
大好きなものを綴った日記です

映画:ハリウッド映画からピンク映画まで
本:ジャンルを問わず小説が中心
食べ物:フランス料理とイタリア料理が好物
旅行:なかなか行けませんが欧州とアジアが好き

大好きなものを語る場合、時として辛口になることもありますが、愛情の裏返しということでご容赦下さい。また文中敬称略であることもご勘弁願います

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